院長・スタッフ紹介|厚生労働省受理かかりつけ歯科医機能強化型歯科診療所

むらき歯科医院

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    診療時間:9:00〜12:30/14:00〜17:30
    (火曜午前は11:30、土曜午後は16:30まで)
    休診日:木曜・日曜・祝祭日

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院長・スタッフ紹介

院長プロフィール

むらき歯科医院 院長

村木 利彦 (むらき としひこ)

経歴

1968年 総社市立総社小学校入学
1974年 総社市外二箇村中学校組合総社西中学校入学
1977年 岡山県立総社高等学校入学
1980年 岡山大学歯学部入学(1986年卒)
1986年 岡山大学歯学部歯科保存学第一講座入局
1988年 玉野三井病院歯科部長就任
1992年 むらき歯科医院開業
2011年 医療法人むらき歯科医院設立

尊敬する人

中村天風・福沢諭吉

趣味

ゴルフ・四国遍路・乗馬

自己紹介

「先生は、どうして歯医者になったのですか?」という質問を良く受けます。

私は、1961年5月9日、総社の田舎の兼業農家に、村木俊治と村木房子の長男として生まれました。
幼少期は、母親に付いて田畑にいって遊んでいたことをうっすらと覚えています。

子どものころから、土にまみれて育ったためか、大きな病気もすることなくとても健康に育ちました。
地元の幼稚園に入って、やんちゃ振りを発揮しだしたそうです。

幼稚園の一番の思い出は、学芸会で「大国主命」の主役を演じたことです。
出で立ちがあまりにかっこ悪くて、嫌がって親を困らせた記憶があります。
演劇の才能は残念ながら無かったようで、劇団ひまわりからのオファーもありませんでした(笑)

小学校に入っても、活発な子どもでした。
自宅から、小学校までの通学路は片道4kmもあり、雨の日も雪の日も毎日歩いて通いました。
登校時間に遅れそうなときは上級生にしりを叩かれながら走って行ってました。帰りも少しでも早く帰って遊びたい一心で、ほとんど毎日走って帰っていた記憶があります。
おかげさまで、持久走大会では毎年上位に君臨してました。当たり前ですよね。毎日4km走りこんでるんですから(笑)
体が覚えているのか、今でも、ジョギングが趣味になってます。

それと、小学校時代の思い出としては、プラモデルとラジコンがあります。
お小遣いは、ほとんどすべてがプラモデルに消えました。一番の大作は、「D-51蒸気機関車」当時で5,000円くらいして、お年玉を全額つぎ込んだと思います。作り出すと、自分の世界に入ってしまい、周りの声も聞こえなくなり、時間も忘れて、何時間でも作り続けます。夜更かしをして、母親に良く怒られていました。でも、おかげで集中力が付いたし、手先も器用になりました。そして、小学校5年生のときに禁断の世界に入りこみます。それが、ラジコン飛行機でした。
入門機「ポンコツ号」でさえ、セットで6万円(驚)。小学生には手の届かない世界です。
しかし、僕はあきらめませんでした。1年かけて新聞配りをして5万円を貯め、あとはお年玉をつぎ込んで、「ポンコツ号」を手に入れたのです。新聞配りの思い出もたくさんあります。毎日40数軒配って一月に5,000円くらいもらっていました。雨の日はかなり大変で、毎夜天気予報を気にしていました。毎週金曜日は広告がたくさん入って、いつもより重さが増します。お正月は倍以上の重さになります。もう一つ大変なのは、集金です。月末に全部の家を回って集金するのですが、一度回ってすべて集まるわけもなく、あの家は何時ごろとか、あの家は何曜日とか、子どもながらに考えて効率よく集めていた記憶があります。でも、今になって考えると、親が一番大変だったと感謝しています。今でこそ新聞がお休みの日がありますが、当時はまだ年に4,5日しかなく、一年中5時に寝ぼけた子どもを起こして新聞配りに行かせるという作業が、どれだけ大変か、親になって初めてわかりました。
そうして手に入れたラジコン飛行機を空に飛ばした時の感動は今でも忘れません。

あるときは、いつも高梁川の河川敷で飛ばすのですが、飛行機がコントロール不能になり川の中に墜落して、真冬の川に中に全身入って回収した思い出もあります。今考えたら命がけでしたが、そのときは、命の次に大切なラジコンだったので、無謀な行動に出たのです。修理にもお金がかかり、子どもにはちょっと続けられない趣味でした。
いろんな部品や、エンジンや飛行機がどんどん買える大人がうらやましくて、早く大人になりたいと強く思いました。

それともうひとつ、小学校時代に岡山の矯正歯科に治療に通いました。学校がおわったらバスに乗って一人で岡山に向かいます。今思い出してみると、FKOという装置を使って治療していたようです。ベルトで動く電気エンジンがチェアについていて、これ使ってプラモデル作りたいなあと思いながら、見入ってました。この経験が、のちに歯学部へ進むきっかけになりました。

中学生になって、部活動でソフトテニス部に入りました。一生懸命にやった割には、強くなりませんでした。でも、中学3年の春の県大会の団体戦で、今でも忘れないくらい思い出に残った試合をしました。対戦成績1対1で三チーム目に登場した僕たちは、みんなの応援の後押しもあり、ゲーム0-3の劣勢から挽回し何度も相手のマッチポイントをしのぎ、逆転勝ちをして、試合後みんなで抱き合って喜んだ思い出があります。このとき初めてうれしくて泣くという経験をしました。
クラスも3年間それぞれ楽しくて、中学時代はいい思い出ばかりがあります。

高校に入ってもテニスは続けましたが、一番の思い出は、マージャンです。ちょっと悪い子でした。でも、勉強もちゃんとやってました。ゲームとしてのマージャンの面白さにはまりました。僕は、パチンコもお酒もタバコも一切しませんでした(あたりまえか・・・)
が、マージャン仲間にはいろいろな人がいて、一度芋づる式に学校に呼ばれたことがありました。母親と一緒に学校に呼び出され、先生に注意され母親が泣いているのを目の当たりにして、「あー、なんて僕は悪いことしたんだろう。」とこころが痛みました。マージャンしたこととか、学校に呼び出されたことが悪いのではなくて、母親を泣かせたことが、子ども心につらくて、もう母親を泣かせるようなことはしないようにしようと反省しました。

そして、そろそろ進路を決める時期がやってきました。
実は、僕の第一志望は東京工業大学建築学部でした。
小学生のころから、母親には「お医者さんになったら」といって育てられました。
なぜかというと、母親の両親は母親が子どものころに病気で亡くなっているのですが、自宅で闘病していた時期が長かったそうで、布団で苦しんでいる母親をみて育ちました。

苦しくなったらお医者さんが自宅に来てくれて注射をしてもらい母親の症状が落ち着き母親が笑顔に戻るのを何度も見て、こんなに人を助けてあげられる素晴しい職業はないと、子ども心に思ったそうです。母親の口癖は、二つあります。一つは「人の役に立つ人間になりなさい」、もう一つは「人の嫌がることは自分が率先してやりなさい」です。

子どものころから、何度も聞かされて育てられました。僕の仕事観のルーツです。
そんなわけで、医学部に行けば親孝行だったのですが、ここで問題が発生しました。
実は、僕は血を見るのが怖い、びびりの少年だったのです。

体が引き裂かれたり、切られて血が出たりする映画は、怖くて見ることが出来ませんでした。なので、医学部には僕のDNAが拒否反応を示したのです。

そうこうしているうちに、僕の受験年度に岡山大学に歯学部が出来るという話が持ち上がりました。母親も歯医者も医者の端くれだと納得してくれて、世の中の役に立つだろうということになりました。僕の中でも、小学校時代に見た矯正歯科のイメージが、プラモデルの世界に酷似していたこともあり、建築学部から歯学部へと志望校が変更することになったのです。
新設校ということで、合格ラインも良くわからないまま、受験したのですが、ご先祖様のおかげで無事合格し歯学の世界に入っていきました。

大学時代は、はっきり言ってよく遊びました。
とにかく楽しかった思い出があります。いろいろな人とも出会い、影響を受け、自分自身も成長しました。大学の中だけでなく、外の世界でも多くの学びがありました。ここではかけないちょっとやばい経験もしましたが、今ではかけがえのない貴重な経験です。
思い出は、たくさんありすぎて書ききれませんが、一つだけ、大学生活の定番、サークル活動について紹介します。

「岡山大学軟式庭球愛好会」これが僕が所属したサークルの名前です。
中学高校とテニスに明け暮れ、大学になったらちょっとおしゃれなサークルに入ろうと考えていたのですが、アーチェリー部やアメリカンフットボール部を見て回っているころ、高校の先輩に愛好会に誘われたのでした。きれいな女性の先輩だったこともあり(そーゆーことか)、断りきれず入会となりました。ところが、入ってみると予想をはるかに超えて面白く、高校までの部活と違って、サークルとはこういうものなんだと、感動すら覚えました。会社のように組織があり、会議があり、会報があり、懇親会があり、新人教育システムがあり、社内恋愛があり(笑)、かけがえの無い友人が出来ました。
3年生になると幹部として組織を引っ張っていくのですが、僕は1年間会長を務めました。
大好きな組織の中で、みんなに支えられて代表を務めるということが、どんなに楽しいことかを身をもって味わいました。そして、多くの学びを得ました。

専門課程に入ったら、さすがに勉強しないと付いて行けなくなりました。やるときは、一生懸命やりました。入学してわかったのですが、周りのみんなは、全国の有名高校から来た人とか、田舎の高校で神童と呼ばれたやつとか、すごい頭が良い人ばかりで、今までいつも学校ではトップクラスだった自分が、大学に入って劣等生という立場を初めて味わいました。心配していた人体解剖実習も無事終え、医学部恐怖症も何とか克服できました。でも、色々な分野を学んでいくうちに、気づいたのですが、この仕事は自分に向いているなと感じることが出来ました。プラモデル作りに明け暮れた子どものころから、細かい作業が好きなので実習も楽しんで出来るのです。美術や図画工作も大好きで、「好きこそ物の上手なれ」で仕事にするにはもってこいの職業なのではないかと思っています。
優秀な成績とはいえませんが、無事卒業し、歯科医師国家試験にみごと合格、岡山大学の第一保存科に入局して研修を重ねました。

臨床に入っても、仕事は楽しいものでした。卒業して3年後には玉野三井病院に歯科部長として出させていただき、さらに臨床の場で腕を磨きました。
自分の人生設計の中で、30歳で独立と決めていたので、4年で三井病院を後任に任せ、平成3年に地元総社市で歯科医院を開業しました。
開業時は、27坪の木造診療所に診療台3台でスタッフ4名でスタートしました。
その後4から5年おきに医院をリニューアル、少しずつ増築して診療台を1づつ増設し、現在では60坪、診療台7台、スタッフ11名になりました。これも、スタッフみんなの頑張りが、社会に評価された証だと思っています。

今回のリニューアルに伴い、今の思いをこめて、新しくホームページを作りました。
これからも、スタッフともども研鑽を重ね、皆様のお役に立てる歯科医院を作っていこうと決意を新たにしています。どうぞよろしくお願いいたします。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

スタッフ紹介

「すべての人には、無限の能力が秘められている」

この事実をいつも心にとめ、それぞれのスタッフの能力を最大限に引き出せるようにと考えています。
当院のスタッフは、CHP研究会が年2回開催するスタッフセミナーではコミュニケーションについて、外部講師による毎月の講習会では衛生士としての知識と技術全般を学んでいます。
スタッフ全員が切磋琢磨し、お互いを高め合えるような職場でありたいと思っています。また、自分の成長を実感することで、幸せを感じてほしいと願っています。

大森 一徳(おおもり かずのり)

血液型 B型
趣味・特技 剣道・読書
尊敬する人
好きな言葉
豊臣秀長
動物占い 面倒見がいい絶対主義者なトラ
ご挨拶

福岡歯科大学出身の歯科医師大森一徳です。
一言、歯医者と言っても治療の内容や処置は多岐にわたります。
虫歯、歯周病、入れ歯、顎関節、智歯などなど、一つだけと言う患者さんは殆どいらっしやいません。ですので、患者さん一人ひとりに合わせた治療を提案出来ればと思います。
歯一本は非常に小さいですが、その一本から全身の病気へ繋がる事もあります。たかが一本と思わず歯を口を体を大切にして行きましょう。私達はそのお手伝いが出来ればと考えます。

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